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2014.05.31 Saturday

アクト・オブ・キリング


元々は被害者を取材対象としてドキュメンタリーを作る予定だったのが
軍等の妨害でストップせざるをえなくなり、被害者から「加害者を取材してほしい」
という意見をもらうことによってはじまった、加害者への虐殺の再演依頼。
インドネシアの現政治体制に対する批判でもあるため
この映画の監督はその後インドネシアに入るのは危険な状態。
というような現在を描いた作品でもある。

 
主人公のアンワルは虐殺を実行した民間人グループのリーダー。
1000人以上を殺害したと語る。今も地元のギャング。
彼とその弟分、過去に同じグループに属した人物
共産主義者虐殺に対する情報と場所を提供した新聞社社長
パンチャシラ青年団という民兵組織、副大統領(当時)等々。
体制側の人物たちが虐殺を再演していく姿を追う。

普通の人間がいかに暴走してしまうか、という観点でいえば
看守と囚人の実験での事件を描いた「エス」という映画が印象的だったが
この映画の怖さはそこにとどまらない。
エスと同じような「役割」を与えられることによる人間の暴走という怖さと
その暴走(虐殺)が現在も体制側、権力側としてそのまま温存されている違和感と
個人差はあるもののいまだ権力側にある虐殺の当事者たちの悪びれなさ。

普通の人間の暴走という点では、映画前半で繰り返される虐殺の再演の場面、
彼らが人を殺す方法を考えるときに映画を参考にした、という軽さにもあるし
段々と躊躇無く効率すら追求されていったという話の空恐ろしさにもある。
またその事実を嬉々として再現してみせる彼らの姿を
どういう立ち位置で見ればいいのか最後の方まで軸が定まらなかった。

しかしこの映画の表現する恐ろしさはその後にある。
こうした過去の虐殺に加担した人物がその後どうなるかと
単純に思い浮かべるストーリーとしては
虐殺を再演することによって自分たちの起こしたことの酷さに気づき
反省し、贖罪を願う。ということになるんだろうと思うが
それがなかなかそこまでたどり着かない。

おそらく虐殺時の価値観が継続する形で結成されている300人を超える規模の自警団がいたり
殺された側の遺族と殺した側のいずれも民間人が狭い町中に隣同士に住んでいること
正義のためにやった、国のために共産主義者を抹殺した、良いことだ、英雄だ
という価値観がそのまま蔓延している世界の中で生きていれば
虐殺を顧みる、ということ自体が行われていないだろう。
この映画監督にカメラを向けられたときにも、糾弾されるなどとは露程も思わず
英雄として賞賛されるのだろう、ぐらいの意識な訳で
第三者として映画を見る我々とはスタート地点が違いすぎる。


善悪の判断が殺人をしたかどうか、というところにはもちろん無い。
勝った方が正義というのがどういう状態か
勝った方、負けた方(巻き込まれて虐殺された人の遺族たち)が
同じ町でそのまま暮らしているというところにその異常性が現れていて
まずその状況を想像し、受け入れるのに時間がかかった。
アンワルの隣に住む男性が義父が殺された場面の話を
アンワルたちに笑顔まじりでしていた場面。
いったいどういう心境だったのだろうか。
加害者たちに対する被害者遺族の告白ではあるものの
責めるような意図が入らないように、気をつかったようにも見えた。
殺される恐怖と無縁ではなかったのではないだろうか。
正義の側にあった人々の行い(虐殺)は反省する機会も
謝罪する機会も要求されていない。


自慢気に虐殺の再演をするなかで
あれ、これはちょっと残忍すぎる?とか時々我に返る瞬間があるように見えたが
罪の意識というよりは、自分たちの見え方が悪くなりすぎることへの懸念というだけで
いわゆる反省とか贖罪というものにはやはり至らない。
そういう場面がいくつも続く。

彼らが自主的に虐殺再演映画を作っていく中
どんどんと自分たちのアイデアを出していき
再現シーンだけではなく、抽象的な場面も撮影されていった。
滝の前でアンワルが被害者からメダルをかけてもらうシーンがある。
処刑してくれてありがとう。というようなセリフだった。

終盤アンワルが自分の演じた拷問被害者の映像を、孫2人を呼んで一緒に見ようとする。
監督が残酷すぎますよ?と言っても聞かず呼び寄せる。
「ほら。じいちゃん出てるよ」
「じいちゃん映画俳優みたいだろ」
ここまで来てまだその軽さなのか。
しかし、自分が演じてみて、それを映像として再度見る経験を経てはじめて
被害者の気持ちがわかる、、とぽつりとつぶやいた。
孫2人はいつの間にかいなくなっている。
監督が、一緒ではないし、実際の被害者は殺されることがわかっていた、あなたは演じただけだ
と指摘するのだが、主人公のアンワルは自省モードに入っていく。
そして映画冒頭で出てきた虐殺の現場にわざわざおもむき、嘔吐するのだ。

本当の意味で共感することなど今から可能なのかどうか。
謝罪や贖罪を願うようなことはあるのだろうか。
最後にほんの少しそのきっかけは見えたのだが。
政治体制が変わらなければそのままかもしれない。

重い映画だった。

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